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オスマンさんのかぼちゃの葉っぱ料理 

 近所のマーガレットさんに用事があって電話すると、思わぬニュースを聞かされた。前日、彼女の隣の家 の45歳のオスマンさんの息子さんが逮捕されたというのだ。オスマンさんはバングラディッシュ出身で、 たしか60代後半、大きな家に未婚の息子さんと2人暮らしだ。

 気のいい人で、いつからか、道であえば簡単な言葉を交わすようになった。道路の反対側でもこんにちわ と手を振りあう。あるときまでは「私は夫が嫌い」と問わず語りに何度かきかされた。それがある日「ご主 人はお元気ですか」というと、「もう数年前に亡くなったよ」という。ときどき会いながら、そのような大 事な事柄にふれることもないまま、お互いの時間が流れていた。

 どちらかというとオスマンさんは年よりも老けて見える。最初にあったときから比べて特にふけたという 感じもない。たいてい長い髪を後ろにひっつめて、サリーを着て大判のショールを肩からかけている。寒く ても素足にサンダルはインド系の人に多く、オスマンさんだけではない。ゆっくりゆっくり、身体をちょっ と左右に揺らすようにショッピングトローリーを引っぱって歩く。

 オスマンさんが、重そうなトローリーを引いているのをみると、つい手を出したくなる。おせっかいにも オスマンさんと足並みをそろえて、台所の入り口までトローリーをひっぱっていったことが何度かある。そ うすると、いくら遠慮しても、作りおきのカレーとご飯を持っていけとタッパーにつめて持たされた。「息 子はハンバーガーとか買って食べて、うちのカレーはどうせ食べないんだから」ともぼやいていた。おそる おそる食べてみたらなかなかおいしい。後で知ったことだが、それも当然で、かつてオスマンさん一家はロ ンドンロードでレストランを経営して、オスマンさんが料理人をしていたのだった。「息子さんはなまけも ので、店をつがなかった」とは、マーガレットさんがオスマンさんからきいた話だ。

 一度はオスマンさんがなんだか大きなざらざらした葉っぱをわさわさと持って歩いているのに出会った。 「それはなんですか」と聞くと「かぼちゃの葉っぱだよ。とってもおいしい」という。かぼちゃの葉っぱが 、食べられるなんて聞いたことがなかったので、驚いてみせると、「料理したらもって行ってあげるよ」と 約束して、ほんとにその他のおかずとご飯も一緒に持ってきてくれた。確かにかぼちゃの葉っぱは美味であ った。こんなおいしいものを食べないでいるのはもったいない。まだレシピを聞いていないからそのうちきかなくてはと思いつつそのままになっている。しかし、かぼちゃの葉っぱは、トルコ人やインド人の食料品店が延々と立ち並ぶロンドンロードでもさすがに売っていないから、かぼちゃを育てている人に分けてもらうしかないけれど。

 この3月の初めごろ、一般からの通報で、このオスマンさんの家に踏み込んだ警察は、5万ポンドの現金とジュラルミンケースいっぱいの大麻を発見し押収した。息子さんは違法な薬物所有、売買、金貸しの疑いで逮捕された。3歳年下の相棒?のところでも1万ポンドが発見された。というようなことが、マーガレットさんが切り抜いてくれた地元のフリーペーパーに「警察の手入れで大量の大麻押収」の見出しでのっていた。警官の「なにか悪いことが行われているのを見つけたら通報してくれればちゃんとした対応をするということをこれでわかってもらいたい」というコメントも載っていた。わたしは日中、オスマンさんの息子さんと道で時々出会うので、どうも昼間の時間の決まった仕事についているようではないとは感じていたが、そんなこととは思いもよらないことだった。マーガレットさんは「そんな大金なら、どうして庭に埋めるなどして隠さなかったのかしら」とか「オスマンさんはたぶんバングラディッシュに戻るんじゃないかな。親戚がむこうにたくさんいるし」と、感想をもらしていた。

 それから数週間たったろうか、正方形の角をとったようなどうどうとした体格のオスマンさんの息子さんがロンドンロードを歩いているところとすれちがった。法律的な手続きがどういうことになったのかは検討がつかない。そしていつものように買い物に出かけるオスマンさんと出会った。何事もなかったかのように挨拶を交わす。きっとオスマンさんはバングラディッシュには戻らないのだ。近くに結婚した感じのいい難病を患う娘さんがいる。お孫さんも3人いる。

 オスマンさんの家は一度火付けにあったことがある。オスマンさんは「この辺には悪い人がいる」といっていた。今思えば、それは息子さんの裏の世界の争いごとがからんでいたのかもしれないが、オスマンさんはそんなことはなにも知らない様子だった。そのあとからドアの前に鉄格子がつけられた。長いことすすけた色が白いドアに残ったままになっている。今は裏庭への入り口にも高い木の戸がついている。オスマンさんはその前庭の小さな花壇にジェラニウムやパンジーを育てている。よく手入れされ、どの植物もとても生き生きとしている。植物の育て方のうまい人を「グリーンフィンガーを持っている」という。オスマンさんの手指もそうにちがいない。


平均すると6人に1人が非白人のイングランド・ウエールズ

5月20日のガーディアン紙が報道している全国統計局発表によれば、2001年から2009年にかけて、イングランドとウエールズの非白人の人口は250万増えて910万人になった。6人に1人が非白人の割合となる。といってもこれはあくまでも平均したもので、東北イングランドやウエールズでは9割以上が白人だ。

ここロンドンロード周辺は一見してあきらかに白人がマイノリティと言っていい。同統計によれば2001年以来、英国人の白人人口はほぼ変わっていない。出生率はあがったものの、国外へ出て行く人もおなじくらいいたからだ。そして、英国人以外の白人は50万人増えて190万人である。その中には東ヨーロッパだけでなく、オーストラリアなどの英国連邦からの移民も入っている。ここロンドンロード周辺で出会う白人は、顔つきや言葉の響きからするとロシア人などスラブ系の人が多いようだ。マイノリティの白人のどのくらいがネイティブのイギリス人かというと、ほんとうに少数なのではと思えてくる。ここではどんな人種の顔でも衣装でもなんの違和感もない。なにもかもごちゃごちゃと入りまざっている。その中に移民の1人としてごちゃごちゃとまざっておもしろいなあと思っていられるときは元気なときである。そうでないときは、ロンドン・ロードを行きかう移民の1人1人が生きて発しているその必死さの総量に中てられたかのようにだるくなってしまう。

この国の移民増加への不安や嫌悪や恐れは根強い。タブロイド版新聞を拾い読みすれば、簡単に移民関連の話がみつかる。例えば、6月2日のイブニング・スタンダードには英国国境局についての国会の報告書の記事。2006年から処理された40万3500人の難民申請者のうち、16万1千人が事実上の大赦、7万4千500人が行方不明、結局2万8千人だけしか強制退去できていないとして、コンピューター・システムの不備、雇用者などへの不十分な点検が、大量の不法滞在をまねいていると警告しているという内容だ。もっともこの記事の焦点はなんとも「非効率」な国境局の元ボスが首相よりも高い年収20万ポンド以上をもらっていたというのが許せないというところで、財政難で図書館やケアサービスの削減の影響を受けている読者の怒りが目に浮かぶようだ。この記事の次のページにはロンドンのウエストミンスター区の学校の校長へのインタビューで「私の生徒の96%が英語が母国語でなく、絵やカードを使って授業をしている」というもの。移民の多いロンドンは国語(英語)のレベルが他の地域に比べてずっと劣っており、教員たちは集中レッスンなど懸命の努力をしているという。先のガーディアン紙へのコメントで「移民ウオッチ」という組織の人は「このまま移民が増えれば20年後には人口が7千万人に達し、増加した分の家庭の半分は移民で占められる。。。。移民増加は労働党前政権の遺産の1つで、意図したにせよそうでないにせよ、彼らは英国の「顔」を永久に変えてしまった」と嘆いている。こうした移民増加への不安は長年続いており、愛国党の地方議員も一時はかなり増えたが、いろいろと悪いイメージがたたり、この4月の地方選挙ではあっけなく惨敗したのには、ほっとした。

移民政策もはっきりと変わってきている。多元文化主義から統合化への流れは、例えば、2月のミュンヘン滞在中にキャメロン首相が「多元文化主義は失敗」と言及したことにも象徴的にあらわれている。同首相は地方選挙を意識してか、4月には大量の移民が英語を学ばず地域と交流しようとも望まない状況は近隣住民の間に一種の不快感と断絶を招いたとして、移民は英語を学ばなければならないと言い切っている。その一方で、英語を学ぶための補助制度が削減されて求職中の人しか受けられなくなった。財政難でどこもかしこも影響を受けているのだから仕方がないとはいっても、矛盾した感じはのこる。

これまでは医療や福祉の公共サービスのパンフレットには、たいてい、複数の言語の翻訳がついているか翻訳文が用意されていた。英語の読めないことがサービスへのアクセスを妨げないようにするためだ。こうしたことも誰もが英語の読み書きができなければならないということになったとき、不要のものとされるようになるのだろうか。


99ペンス・ショップ

ロンドン・ロードにも春が来た。早春真っ先に咲いた白い小さなスノウドロップや紫のクロッカスに続いて、今は水仙や連翹の花の黄色がうれしい季節になった。ロンドン・ロードには花壇も並木もないけれど、年中あまり変わりばえしない八百屋や肉屋、床屋の店先、道を行く人たち、通り過ぎる赤い二階建てバスにやわらかな日差しが降りそそぐ。

12月の大雪の時には、飛行場も閉鎖、バスも電車もほとんど運行停止、1メートルもある氷柱が2階家の軒にいくつもぶら下がった。そのようにめったにない厳寒のある日、夕闇の迫ろうとする頃、ロンドン・ロードからショッピング街に入ってすぐのところにある百貨店マークス・アンド・スペンサーの向かい側の99ペンス・ストアーの屋上から裸の黒人女性が飛び降りた。ふつうは1ポンド・ショップ、日本の百円ショップのようなものだが、ここは1ペンス安い99ペンス。狭い店内にぎっしりとありとあらゆる食品・雑貨が並ぶ。

もうすっかり暗くなってからその前を通ってロンドン・ロードへ行こうとすると、警官が立ち、通行禁止になっていて遠回りをしなければならなかった。何があったのか気になり、99ペンス・ストアが見える赤いぼんぼりの飾りがついたビュッフェ型の中華料理店の前でビラ配りをしていたインド系の青年に聞いてみた。最近この国に来たばかりらしい、人なつこい彼は一部始終を見ていたらしく、ブロークン・イングリシュで教えてくれる。「年齢は中年ではないか、どうやって屋上に上がったのかはわからない。しばらく屋上にたっていた。気づいた通行人たちがなんとか止めよう、または受け止めようとしていたがうまくいかなかった。警官も来たがなにもできなかった。落ちたとき息はあったようで病院に運ばれた」。どうしてそこまで追い詰められてしまったのか。

誰か屋上に駆け上って助けることはできなかったのか。その目に、何が見えていたのだろう。コートを着ていても凍えるような日に裸で屋上に立つ女性の姿がどうしてもリアルに浮かばない。この国で生まれた人かもしれないし、アフリカや西インド諸島の暖かい国から来た人かもしれない。全身の素肌を襲う冷たさばかりが感じられた。その後の新聞では命はとりとめたらしい。近くのホームレスの宿泊所にいたというが、その何ヶ月前だったかにもホームレス宿泊所にいた人が窓から飛び降りている。そんなことはよくあるわけではない。前には聞いたことがなかった。

それにしてもつらい冬だった。いつの間にか中華料理店の前のビラ配りの青年はいなくなり、3月の明るい日差しのある日、不況のあおりか中華料理店も店じまいした。99ペンス・ショップばかりは繁盛して、なにごともなかったかのように、人の出入りがとまることはない。



道路に放り投げられた赤ちゃん

8月の上旬だったと思う。街で買い物をした帰り道、ロンドン・ロードに入ってすぐのところ、ウエストクロイドン駅のあたりで、見おぼえのある中国系の顔をした黒髪の若い女性が赤いコートを着て厳しい表情で、たぶんテレビ用のカメラを持った人となにか打ち合わせをしているのに通りかかった。なんだろうと一瞬、好奇心は沸いたが、どこで見たのか思いだせずそのまま忘れていた。

翌週になって、無料配布のローカル紙を見て、その女性がBBCのロンドン・ニュースのキャスター、リポーターだったと気がついた。テレビのニュースキャスターには黒人もインド系の人も複数いるが、私の知る限り中国系の顔はこの人しかいない。メディア全体に中国系の人は活躍があまりなく、つい最近まで、料理番組でもない限りほとんど登場しなかった。だからなんとなく親近感を感じていたのだが、実際の顔をみてもすぐにはわからなかった。

無料配布のローカル紙(8月4日付け)の一面には、額の赤くなった赤ちゃんの写真と「バス通りに投げられた赤ちゃん」という題の記事が掲載されていた。この近辺に限っても怖い事件はときどき起こる。でもこのニュースはショックだった。続きの2ページ目には「どんな人間が赤ちゃんを傷つけることができるのか」という題でウエスト・クロイドンの真向かいのバス停の写真がつけてあった。あの女性はこのニュースを報道していたのにちがいなかった。

事件は午後の7時、まだ明るいうちに起きたという。13歳の女生徒が母親と生後7ヶ月の弟の赤ちゃんとプライマークという長袖のTシャツが500円以下で買えるようなファースト・ファッションの店で買い物をしていた。すると学校で女生徒をいじめている同級生2人に偶然出会い、同級生たちは家族の前にたちはだかった。女生徒はいじめを避けるため子供服のある下の階へ行ったが、母親は同級生がいじめを自慢しているのを聞きつけていさめる言葉を発した。そのあと、女生徒と母親は店をでたが、同級生たちはショッピング街を歩く女生徒と母親の後を追い、バス停までついていった。プライマークからそのバス停までは10分くらいの道のりだ。

まだ通勤帰りの人がいるバス停で、同級生たちは女生徒と母親を殴りはじめたという。攻撃を始めたのが、なぜロンドンロードのバス停だったのだろうか。そのうち1人の同級生が、女生徒が抱っこしていた赤ちゃんをもぎとってロンドン・ロードに放り投げた。ボールのように放られて宙に浮いて赤い二階建てバスの通る硬い路面に落下する赤ちゃん。取り乱して走りよる母親と姉、赤ちゃんの周りにできる心配げな人垣、、、。奇跡的にというか、赤ちゃんの命に別状はなく、あざと軽いけがですみ、テストの結果も異常なしだった。父親は「私たちの国には昔から赤ちゃんにはみんな天使がついているということわざがあるけれど、息子にも天使がついていたんだ」「いったいどうしたら無防御の赤ちゃんにこんなことができるんだろうか。どんな人間なんだろうか」とコメントをよせている。

赤ちゃんを放り投げた同級生の女生徒14歳が傷害罪で逮捕された。警察が目撃者をさがしているという。新聞は赤ちゃんの周りに人垣ができたことは描写しているが、家族への攻撃を止めようとした人がいたかどうかについてはなにも触れていない。攻撃を目撃してもとめずに通り過ぎた人たちが、証言者として名乗り出ることは難しいのかもしれない。

女生徒の家族はモーリシャス出身だ。モーリシャスはインド洋上の島国。イギリス連邦内の一国として1968年に独立した。ネットでいくつか他の報道を見てみると、同級生の女生徒家族に対する攻撃には人種差別的な動機があったと伝えているものがあった。学校での女生徒へのいじめは女生徒の白斑がきっかけになっているというが、人種的な動機もあったのか。逮捕された同級生の人種は明らかにされていない。

通りすがりの人が話す言葉が英語ではないことがふつうのロンドンロード、ゆったりとした、のんびりとした雰囲気とは遠い。活気があるというのとも違う、ざらざらした緊張感がある。ロンドン・ロードの赤ちゃんが放り投げられたあのバス停を、私は毎日通る。



選挙と右翼グループと移民

5月6日の総選挙の結果、首位の保守党が過半数の326議席を確保できず第3党の自民党と戦後初の連立政権を樹立し、13年続いた労働党政権の時代が終わった。キャメロン首相とクレグ副首相(自民党党首)はそろって「新しい政治の時代が始まる」と高らかに唱えたが男性が圧倒的に支配する政治に変わりはないとフェミニストは冷ややかだ。ただ、「ガーディアンの総選挙2010」によると今回の選挙では3名のムスリム女性が初当選している。初めてのインド人議員は1892年(ロンドン)、初めてのムスリム男性議員は1997年(グラスゴー)、そして今回のムスリム女性の当選につながる。彼女たちはムスリムとしてだけでなくアジア系の女性としても歴史上初めての議員となった。

私は外国人で選挙権もないのだが、極右の英国ナショナル党が議席を取る可能性もなくはないというガーディアン紙の特集記事には緊張感をおぼえずにはいられなかった。同党は移民やその子孫がこの国からいなくなることを求めている。白人だけが会員になれるという規則は法律違反ということで昨年変更をやむなくされたが本質が変わったとは思えない。「かつての労働党の牙城が熾烈な戦いの場に。労働党の長年大臣を務めてきたマーガレット・ホッジに対するは英国ナショナル党党首ニック・グリフィン」(3月13日)という見出しで、ロンドンのバーキング選挙区の住民と両者の選挙キャンペーンを取材した記事を乗せている。2006年の地方選挙でここの自治体(バーキング・ダゲナム区)の区議会には12名の英国ナシャナル党員が議員に選ばれた。今回の総選挙と同時にロンドンの地方選挙も実施されたのだが、英国ナショナル党が多数派になって議会を主導する可能性もなくはないと記者はほのめかしていた。なにしろ同党のメンバーが、2008年にはロンドン議会に1人、地方選挙で100人以上、2009年には県議会に3人、欧州議会に2人(1人はニック・グリフィン党首)が当選しているという重い事実があった。

バーキングがそんなことに。。。。どうしてそんなことになったのかについて、この記事では、かいつまむと、「かつてこの土地はフォードの大きな工場があって5万人の雇用があった。それが今では2千人ばかり。また多数の区立住宅があるのでも知られていた。ところがマーガレット・サッチャーの政策で区立住宅の多くが住人に売却され、やがて住民はそれらを売却して区を出て行き、それらの何千という住宅はロンドンで最も安価な民間賃貸住宅となりそこへ多勢の移民が押し寄せてくることになった。そこで昔からの住民と移民たちが少ない仕事やあらゆる資源、特に区立住宅を求めて競争することに。それが人種や国籍の敵対する問題になっていった」と説明している。住民へのインタビューでも「新しく区立住宅ができたって移民が入居してしまい、何世代もここに住んでるうちの息子が入れやしない」というような不満が多い。労働党のホッジ議員自身も移民である。ユダヤ人両親とナチに占拠されたオーストリアから逃れて英国にきた。彼女は「政府の大きな失敗の一つは区立住宅の生活の質と手ごろな住宅供給の重要さに気がつかないできたことだ。2001年から住宅問題が鍵だと私は言い続けてきた。」と語り、政権のトップが動かず何も変わらなかったと苛立っている。ホッジ議員の危機感はおおげさとはいえないのだろうと思う。私自身、1980年代にニック・グリフィンが別の極右のナシャナル・フロントのメンバーとして立候補したことのある選挙区に住み、移民のせいでイギリス人の方が区立住宅や住宅協会のアパートに入居できないという不満を何度も聞いたことがある。それがどこまで事実に裏打ちされているかどうかは別として、ある層の住民にはそういう不公平感が根強くあるのだ。

しかし、ふたを開けてみると、マーガレット・ホッジは必死の選挙運動が実ってか、1万6千票の大差をつけて圧勝した。英国ナシャナル党のニック・グリフィンは3位で6620票にとどまった。しかも英国ナシャナル党の区議会議員候補者は全員落選した。選挙を前にして英国ナシャナル党のニック・グリフィンが初めて政治家や有識者がパネルになって質疑応答するテレビ番組に出演したおりの発言や、彼の欧州議会議員としてのメディアへの露出が、その人と党の真の姿を暴露し得票できなかったとする見方もある。私は単純に「この国では右翼の国家議員なんて出ないのだ」と喜んでしまった。

だけれど、5月29日の週末版ガーディアン紙の一面を見てぎょっとした。イングリッシュ防衛同盟という極右グループを同紙が調査した記事「英国の新極右の暴力世界の内情」が、同同盟のイニシャルのついた不気味な頭蓋骨のマスクをした若い白人男性の写真と一緒に掲載されている。同同盟は昨年6月に、少数のイスラム過激派が英国王立軍隊の帰国パレードに反対するデモを行ったのに対応する形で、ルートンというところで始まったという。主にフットボール・フーリガンなどのネットワークが基礎になっている。過去4ヶ月その動きを見守ってきたガーディアン紙は「イスラム過激派に平和的に反対する、人種差別者ではない」という同同盟の集まりの参加者が数百名から数千に膨れ上がり続け、そのプロテストが暴力沙汰になったり人種差別的暴言とイスラム教徒誹謗を繰り返すのを目撃した。70年代のナショナル・フロント以来の深刻な極右のストリート・ムーブメントであるという。反人種差別キャンペイナー(サーチライト)が「今月の選挙での右翼の敗北が暴力へと志向させているのかもしれない。長年英国では見られなかった重大で危険な政治的現象だ、秩序の混乱と政治の右傾化の可能性がないとはいえない」とコメントしている。また大学の右翼政治の専門家は「同同盟が反イスラムを核にしていることは非常に重大な意味がある。それは一部のメディアや政治家でイスラム嫌いに対し比較的共感的なところがあるからだ。反ユダヤを取り込んだ70年代の右翼はそうした共感は得られなかった。」そこがかつての右翼ムーブメントと基本的に違うと指摘している。


クロイドン病院の跡地


クロイドンの街の中心を背に、ロンドン・ロードに沿ったペーブメントを歩く人混みには白人の顔はむしろ少数だ。もともとこのあたりはインド系の人が多かったようだが、特にこの10年で多様化が進んだように思う。中東、中国、東欧、アフリカや西インド諸島など世界中の人が集まっていて、おしゃべりしながら通り過ぎる人の言葉が何語なのかわからないこともしばしばだ。そうした多様な人の文字どおり渦の中にいると、異邦人として目立たないですむ気安さがある。ただ、それは渦に混じっているというだけで、そこに帰属しているという感覚とは遠い。私の場合、それは何年たっても変わらない。

1990年1月に初めてこのロンドン・ロードをとおった。海外からフルタイムのボランティアを受け入れ、各地に斡旋する民間非営利団体の紹介でロンドン・ロード、たぶん100番地だったクロイドン病院に配置され、ボランティア・コーディネーターを訪ねていったのだ。いま、その病院は取り壊され、空き地になったまま、ロンドン・ロードに沿ってえんえんと続くそっけない高い板塀に囲われている。その年の1年間、私は総合病院と宿舎のあるクイーンズ病院敷地(元ワークハウス‐救貧院から高齢者専用病院に、そして当時すでに廃院になっていた)との間を月曜から金曜まで毎日ロンドン・ロードをとおって片道20分ほど歩いた。その中間のロンドン・ロードにはより規模の大きい大学病院もあり、救急病棟も備えている。ただ、今後、厳しい財政のためすべての公共サービスは予算の削減が予想され、同病院の救急病棟閉鎖のうわさもあるようだ。

今は雑草が所々に生えているだけのクロイドン病院跡地には、かつて百数十床の高齢者長期療養ベッドがあった。そうした病棟はみな90年代までに廃止され、民間のナーシングホームがその役割を担っている。かつての高齢者用長期療養病棟では多くのボランティアが入院患者の余暇活動のアシスタントをしていた。私もその1人でフルタイムで配属された。あれは1990年の秋だったろうか、クロイドン病院の高齢者病棟はみな閉鎖されることになり、ある人は民間のナーシングホームへ、ある人は別の国立病院へ移っていった。その引越しを車椅子を押して手伝うのも私の役割だった。ナイチンゲール・スタイルという大きなホールのような広々とした病室には窓際と壁際に2列にベッドが並び、中央には看護ステーションというのか、机がいくつかすえられていた。

ボランティアも入院患者も大半が白人だったが、ナースは移民が目立った。とくにジャマイカなど西インド諸島の黒人が多かったように覚えている。それは高度の看護技術を要しないとされていたようだった高齢者の長期療養病棟できわだっていた。そしてここ数年、病院で診療を受けたとき、医師も看護師も外国人のことが多く、移民なしで国営医療制度は成り立たないということをニュースの数字としてだけでなく、あらためて身をもって感じた。2003年のガーディアンの記事はイングランドのナースの12人に1人が海外からきているという。日本でも看護や介護労働に海外から人材を受けいれだしたが、この国では戦後まもなくの労働者不足から始まっている。

ロバート・ウインダーの「ブラディ外国人たち」という本には、戦後の移民の歴史も詳しく描かれていて興味深い。題名は直訳だと血まみれの外国人となるが、この「ブラディ」はののしりの言葉で「いまいましい」という意味。ちなみに「ブラディ・マインデッド」は扱いの難しい気質のことだ。この本によると、当時、外国労働者委員会というものがあり、農業、病院、鉱山、その他の工業のため100万人の労働者を求人する使命をおっていた。1947年には労働省が数十人の求人のための職員をドイツなどで採用し、数年のうちに東ヨーロッパを含むヨーロッパ各地から数十万人の外国人労働者を英国に集めたという。

その翌年の1948年というのは、英国がかつて有名だった「ゆりかごから墓場までの」福祉国家の礎を築いた年で、ナショナル・へルス・サービス(大半が税金で賄われる受診無料の国営医療制度)の法も成立する。そして移民の歴史でも、広くはこの国の多文化社会の現代史においても同年は画期的な年になった。「エンパイア・ウインドラッシュ」という船が、6月22日ジャマイカなど西インド諸島からの黒人移民を何百人ものせてロンドンの東方のティルブリーに到着したのだ。戦時中、旧英国植民地のジャマイカからも数多くの志願兵が募られたが、ウインドラッシュは休暇中の兵士を迎えにきたのだった。それに乗じて再志願しようとする元兵士や「マザー・カントリー」の英国見たさで参加する人も加わったという。またこの年にはあまりの反対もなくすべての旧植民地の国民に英国へ自由に入国する権利が与えられている。

西インド諸島からの移民の波はその後も続いた。戦後の復興の時代に移民労働者は大きな役割を果たしたのだ。BBCのナシャナル・ヘルス・サービス成立60周年記念の記事の1つにやはり兵士と移民労働者を乗せた船で英国へやってきたジャマイカ出身のナースの回想があった。「みんな親切で歓迎してくれた」(2008年7月3日)には76歳の元ナース、グロリアさんが「厳しいさむさ」や「人々の暖かさ」「黒人が珍しくてじろじろ見られたが人種差別にはあわなかった」「ただ、婦長職についていたとき、患者の親族から婦長に会いたいと言われ、自分が婦長であると言うと相手がいらいらしたことはある」などと肯定的に語っている。これは60周年のお祝いのことでもあるし、役職にも着いた前向きな姿勢の人のコメントだ。グロリアさんは数年で帰国するつもりが、ウインドラッシュでやってきた夫と出会い英国に定住することになり、ナースの仕事を愛して1992年までショナル・へルス・サービスで働いた。同じような話を高齢者たちの回想グループを手伝っていたとき何度か聞いたことがある。確か、多くの人がいつかは暖かい故郷へ帰るつもりで大きなトランクにそのとき持ち帰る宝物をつめていた、、。

今は跡形もないクロイドン病院にもグロリアさんのような境遇のナースがいくらでもいたにちがいない。高い板塀の隙間から跡地の写真を撮っている男性がいた。昔ナースとして働いていた母親が見たがっているのだという。廃院のまま何年か過ぎ、ようやく取り壊されたものの、建つはずになっているアパートの着工のようすもないまま、また歳月が流れている。変わり続けるロンドン・ロードを歩きながら、私もいつのまにか20年も前のことになってしまったクロイドン病院のボランティア時代が急に懐かしくなる。ある週末の日、余暇ルームで軽度の認知症のある患者さんと2人でケーキをつくった切れ切れの記憶。あまり人気のない廊下をわたり、以前は手術室だったという余暇ルームに車椅子を押して入ると、その女性は「あら、あなたのキッチン素敵ね」とほめた。オーブンのドアはなんとか開けたもののなかなか閉まらない。「けりをいれなさいよ」と言われてそのとおりにすると、なんなく閉まった。「羽のようにかるいスポンジ・ケーキができたね」と喜んでくれたっけ。


気になるファクト

●1月7日、BBCの報道によると、英国滞在ビザ取得目的の違法な結婚が急増している。2009年11月現在の統計で前年の54%増加した。2005年から英国で外国人が結婚するには内務省大臣の許可が要るようになったが、それが人権法の観点から違法として無効となった。それからまた違法と疑わしい移民の結婚が増え始めた。2004年度には3500のケースが違法と疑われ、またそのレベルに逆戻りするのではと関係者は心配している。

ペーブメントの長い行列

ごちゃごちゃとしたロンドンロードからクロイドンの中心になるショッピング街に入ってすぐ左の青緑の尖塔が美しい教会のある通りを抜けると、幅の広い車道に行き当たり風景が一変する。道路の両側にオフィス・ビルやホテルの美しくもない特徴もない高層ビルが建ち並んでいる。なかでも目立つのは道路の向こう側にある内務省、移民や国境管理をするボーダー・エージェンシーのビル、ルナハウスだ。地元の無料新聞クロイドン・ガーディアンによるとここは2008年1月から、英国で唯一の難民をスクリーニングする課のあるオフィスなのだという。それまではリバプールにもあったが10月に閉鎖されたのだ。同紙の記事は「すでに大変な数の難民がいるのに、これではまたそれに拍車をかける、注意してかからなければ、こうした状況が極右や人種差別者のいいように利用される」と危機感をつのらせている地元議員のコメントをのせていた。

秋も深まったその日、そこからルナハウスの方に横切らずに右に曲がって駅方面に歩いていくと、ビルの前から歩道に続く長い行列が前方に見えてきた。寒い日のいろいろな人種の忍耐強い長い行列。そこにも内務省のオフィスがあって、ドアが開くのを待つ列だった。こちらはそれほど高層でもないしバリケードもない。このところ私はなるべくカメラを携帯して日常の風景をとっている。このときも行列を通り過ぎてすぐの信号機の横断歩道を渡って足を止め、なにも考えずにカメラを取り出して行列の人々の写真を2枚とった。数秒もかけなかった。それからロンドン市内のギャラリーの無料講義に遅れないよう足早に駅へ向った。

数分した頃、駅近くになって後方から「マダム」「マダム」と繰り返し呼ぶ声がきこえてきたが、自分のこととは思わなかった。そのうち制服の白人の若い顔立ちの整った2人が前をふさぐように立ちはだかった。「質問があります」。制服の文字を見るとメトロポリタン・ポリスとある。なんのことなのか検討がつかない。信号無視したからかな?でもこの土地ではたいていみんな信号無視してるし、、。1人が「なぜ、ホーム・オフィスの写真を撮ったのですか?」と鋭いまなざしを向けてくる。「テロリストの警戒態勢にあります。目的は何なんですか?」。「やれやれ、そうだ。なんてナイーブな私」。周辺を写すモニター・カメラを常時監視する人たちがいてパトロール中の警官に不審な行動をとる者の通報がいったのだろう。盗み取るように写真をとって速足で歩き去った私はまるで逃げているようにみえたかもしれない。

「人のいる風景をとっているんです。行列の写真をとっただけで」、、「なんのためですか」と1人の警官が厳しい口調で問い詰めてくるのに、もう1人の警官は「趣味ですか?」とやわらかい。そんなやり取りのあとに、オフィスと電話でやりとりした厳しいほうの1人がいくつか質問しなけれなりませんと言った。急いでいるなどというのはもちろんいいわけにならない。名前と住んでいる地域などを聞かれた。しっかりとノートに記録している。身分証明書を見せるように言われても何もないので、たまたま持っていた美術館の私の名前の印刷してあるメンバーカードを出しながら「1時までにギャラリーに行きたいんです」と言うと、やわらかいほうの人が「ああ、Tateに行くんだね、1時じゃそろそろいかないとね」と急ににこやかに応じる。美術館の好きな人はテロリストじゃないということでもないのでしょうけど。

もう1人は「犯罪歴はありますか」と聞いてくる。高齢者などのための組織のボランティアになるにはいちいち犯罪記録事務所から「犯罪歴がないという証明書」をとることになっていて、最近また証明をもらったばかりだった。でも面と向って犯罪歴があるかなどと聞かれるのは初めてで感情的になってしまった。事務的な質問にすぎないのだから「ありません」と言っただけにすればよかったのに「あるようにみえますか」と情けなさそうな顔をして付け加えてしまって、すごい迫力でにらみつけられた。たてついたというニュアンスなのだろう。そのあと、彼がまたオフィスと電話で話し、ようやく解放してくれた。別れ際にやわらかいほうの人が親切にも「これは犯罪記録には残りませんから」と教えてくれた。たしか、「よい1日を」ともいってくれたような気もするが、ほっとしてなんだか上の空で最後のところは覚えていない。

その1週間後だったろうか。ラジオでカメラマンが警官からテムズ川のところで写真をとっていて職務質問されたという話をしていた。そのカメラマンだけでなく、他のカメラマンも観光客なども同じ目にあっているらしい。警官の過剰な対応がニュースになったことが影響して、その後彼らの対応が柔軟になったかどうかはわからない。2001年に逮捕され終身刑になった「シュー・ボンマー」(靴に爆弾を隠していた)テロリストはクロイドンの出身である。この街には内務省のビルも高くそびえている。警戒態勢の緊張感もわからないでもない。それ以来、写真を撮るときは一瞬ためらってしまう。


最近の気になるファクト


●政府の委託を受けたオックスフォード・エコノミックスというコンサルタント会社のリポートによると過去8年で200万人の移民が増えた。英国には今およそ660万人の移民がいる。(ロンドンの無料新聞メトロ 2009.10.19)

●英国の人口は全国統計局ONSの見積もりProjected Population によると2008年の6100万人から2033年には7160万人に増えるかもしれない。その増加分のおよそ3分の2は、直接または間接的に移民によるもの。

●全国紙ガーディアンのウェブサイト2009.11.11によるとインドのカースト制度に基づいた差別が英国でも蔓延しているという。アンチ・カースト差別連盟Acdaのリポートが低いカーストの出身者の半分以上が職場や教育の現場など幅広い局面で偏見や差別的虐待を経験している。


ストリート・プリーチャー


ロンドン・ロードがショッピング街につながる交差点に行きかかったところで、すぐ右隣を「サレンダー、サレンダー(降伏しろ)」と言いながら通り過ぎる人がいる。信号待ちをしながら声の方を振り向くと、視覚障害者のデイセンターで知り合ったボランティアのピーターがいた。

歩きながら説教(キリスト教の)をしているのだった。ちょっと荒々しいその声は、デイセンターで一緒に何十枚もの皿やコップを洗ったり、ランチのお世話をしていたときの穏やかでやさしいピーターからは想像がつきにくい。アフリカのガーナ共和国の出身で確か40歳代。小柄なせいか20代にも30代にも見える。

ガーナという名前から、東京オリンピック時に10歳だった私は赤いつや紙で包まれた「ガーナ・チョコレート」をつい連想してしまうが、やはりカカオ、それから金、材木が主要輸出物だと大使館のサイトにはあった。しかし、かつてはゴールド・コーストと呼ばれたほど豊富だった金の取引も、奴隷貿易が盛んだった時期にはその勢いの影に覆われたという。今、国民の半分はキリスト教徒、15%がムスリム。そして同国は英国の植民地から1957年に独立した。英国とは何世紀にもわたっていろいろと複雑な関係にあったのだ。

そのガーナにいたときも、ピーターはキリスト教の集団とともに旅をしながら布教活動をしていたようだ。若いときはムスリムだったがいつからか転向して熱心なクリスチャンになったと誰かにきいた。私には清掃会社で働いているが、「プリーチャー(伝道師)になりたい」と言っていた。

以前もピーターが人通りの多い街中で、拡声器をもって説教しているのを見かけたことがある。こんなふうに実践しているのだとは知らずに、初めは驚いた。今日は小型のアンプリファイアーを持ってマイクは目立たない。

ここ数年、大きな声で怒鳴るように説教している人をときどき街でみかけるようになった。おもに黒人女性、白人の男性も1人いた。「地獄」とか「神」とか、「堕落した暮らし」などの言葉を切れ切れに耳にするだけで、何をいっているのか立ち止まってよく聴いたことはない。

説教しているピーターに手を振って挨拶すると、真剣な表情から一変して満面の笑みになった。はにかみながら「やあ、元気」と応えてくれる。

説教の中断をしてしまった。好奇心から「どういう宗派なの?」ときくとピーターは「カリスマティックといって、今もミラクルがおこっていることを信じるムーブメント」だという。日本語でグーグルしてもあまり情報は得られないが、英語で調べるとカリスマティック教会とカリスマティック・ムーブメントについてのサイトが大量にでてくる。キリスト教について詳細な知識のない私がちょっと目をとおしたくらいではどうもよく把握できない。「ビリーブ」という宗教情報サイトには「カリスマティック・ムーブメントは、聖書で述べられている聖霊の贈り物が現代においても顕在していることを信じる国際的な宗派を超えたクリスチャンのインフォーマルな集合体」とある。辞書にもカリスマはもともとはギリシア語で意味は贈り物という説明があった。

ピーターは簡潔に「ジーザスの時代にミラクルが起こって、今は起こっていないということはない、今もミラクルはあるんだよ」と教えてくれる。「ああ、そうなの」とわけもなくスマイルしながら言ったからまじめに受けとっていないと感じたのか、ピーターの顔がちょっとだけ厳しくなった。赤い表紙の大きなバイブルを手に「神は存在する、ミラクルは起こっているんだよ」という。私は「うん、うん」ときいてその顔がなごやかになるのを待つ。「それじゃあ、あんまり邪魔したら悪いから、またね」と挨拶して手を振りながら歩き出す。するともう次の瞬間には、ピーターは街角のプリーチャーに戻っていた。ピーターの大きな声が私の背中を追ってくる。ミラクルか。ピーターはこの街でなにかミラクルを目撃しているんだろうか。

うっかりきき忘れた。



ロンドン・ロード

 ロンドン・ロードという名称の道路は各地に見られ、スコットランドやウエールズにもある。コリンズのストリート・アトラス、マスター・ロンドン地図帳の索引には、40以上のロンドン・ロードの項目があった。それらのほとんどは、世界のどの都市よりも早くロンドンが外へ外へと拡大していった以前から存在しており、郊外の町々からロンドンへ向う主要道路だったという。

 私はアウター・ロンドンの南部、クロイドン区のロンドン・ロードから徒歩数分のところに住んでいる。ちょうどロンドン・ロードがクロイドン区の町の中心のサウスエンドというショッピング街にぶつかる直前のブロードグリーン(選挙区画)の一角である。

 ブロードグリーンはクロイドン区の中では北部に位置し、24の選挙区画のなかでも最も犯罪率の高いところだ。メトロポリタン警察の2009年3月統計ではブロードグリーンの犯罪件数は310件、同区では2番目に多い。一番少ないところは31件である。同区ではサリー県につながる南部が裕福な地域で高級住宅が立ち並び、ランベス区などインナー・ロンドンに近いブロードグリーンを含めた北部が貧困地域、そして移民が多い。クロイドンの地図を南北2等分すると北部の移民人口割合は4割またはそれ以上である。一方南部はほぼ2割以下になる。こうした南北の差異は乳児の死亡率などの健康格差にもつながっている。当然、それは町の雰囲気にもはっきりと現れている。ブロードグリーンのロンドン・ロードにはハラルミートの肉屋、トルコ人のスーパーマーケット、中国人の経営するネイルケアの店、カリビアンのファーストフード店、インド人の衣料品店などなどがひしめきあう。


ロンドンロード①


 隣人のリグビーさんはイタリア人の父とフランス人の母のもとに生まれた。イギリスに来たのは小学生のころ。今年83歳になり、肉屋で働いていたイギリス人の夫をパーキンソン病で3年ほど前になくした。ここ数年は息子2人がパートナーと別れて戻ってきて同居している。ブロード・グリーンでの生活は50年以上になった。4寝室、ラウンジ2室、広い庭の着いた大きな一戸建てが当時は百万円ほどで買えたという。おそらくリグビーさんはこのあたりで一番古い住人だろう。そして数少ない一軒屋に住んでいる。バイオリンを弾き、花の手入れを楽しみ、長年親しんだ庭を手放すことはできない。近所の家の古い住人たちは多くが家をいくつかのアパートに分譲して売って出て行った。一見、普通の一軒家でも、よく見ると、複数の呼び鈴がついているところが少なくない。住人の人種もさまざまで、家の持ち主だったり、賃貸人だったりいろいろだ。

 どこの都市でもそうだろうが人の移動が頻繁で近所づきあいが多いとはいえない。それでもリグビーさんは例外かもしれない。どういう知りあいなのか、ロンドン・ロードの歩道でもときどき電動四輪車をとめて話し込んでいる。年々ふっくらとしてきたリグビーさんは膝への負担も増して杖なしでは足元がおぼつかないので、この電動四輪車がなければ外出は難しい。雨がひどくない限りほとんど毎朝、9時半ごろ、ベレー帽を被り大人が小走りに歩くほどのスピードでロンドン・ロードの歩道を電動四輪車で買い物に出かける。リグビーさんの家からはロンドン・ロードまで5分、そしてロンドン・ロードを5分も走ればショッピング街だ。電動四輪車でデパートやスーパーにもどんどん入っていける。買い物品は、前のかごと背もたれの後ろについたバッグに詰め込む。

 ときどき、リグビーさんは賭けごとを扱う店であるベッティング・ショップで電動四輪車を止めている。その日は馬券があたったと嬉しそうにしながら、車が忙しく行き来するロンドン・ロードの向かい側のパブの前に立っている黒人の男性に手を振った。ポールというその男性もやはり高齢で独り身で、よく朝からあいている「愚か者の船」というそのパブで朝食をとったり、ベッティング・ショップで時間をつぶしたりしているらしい。「寂しい人だからね、たまに一緒にコーヒーを飲んで話し相手になってやってるのよ。」とリグビーさんは説明する。彼については西インド諸島の出身で昔に家族と別れているということの他は知らず、お互い個人的な話には触れないのだという。リグビーさんも子供や孫のことで悩みがたえない。1人の孫は薬物依存の母親と2人で環境の良くないところで暮しているから、なんとか父親である息子とリグビーさんが引き取って育てたいとソーシャルワーカーとやり取りをしているが、なかなかうまくは事がはこばない。だから「ポールとの話は政治のことがほとんどね」という。リグビーさんがソープボックス(演説台)に立ったみたいに「欲ばりな金持ち」と「信頼できない政治家」について元気よく話すのをなんども聞いているが、「ポールも意見は大体同じ」だそうだ。宗教と政治の話はなるべく避けてお天気の話をするという暗黙のルールも移民には関係ない? 2人がロンドン・ロードのカフェで怒った顔をして楽しそうに政治談議をしている姿が目に浮かんだ。


2011年8月8日、ロンドン・ロードの暴動

8月8日の4時ごろに、ロンドン・ロードにある雑貨屋ながら郵便の窓口業務も行っている店で知合いと落ち合った。行列が長いほかは代わりがない。天気も悪くなく、いつもの雑然とした雰囲気のロンドン・ロードでは、ブロード・グリーンの犯罪率などよからぬ統計などを頭においたよそから来た人ならともかく、このあたりの住人ならふつうに特別な緊張感など持たずに歩いていた。

それが、いつ頃から変化したかというと、よくわからない。7時くらいに街にピザを買いに行ったという隣人によれば、その時すでに主に少年たちが集まり始め、クロイドンの街の中心やロンドン・ロードをなんの目的か行き来し不穏な雰囲気が漂っていたという。

ロンドンやマンチェスターなどで5日間にわたって起きた大規模な暴動のきっかけは、8月4日にロンドン北部のトッテナムで、銃犯罪の特別操作チームの警察官により1人の男性が取調べ中、射殺されたことに始まる。当初メディアは警察の発表を受けて男性が発砲したとしていたが、後にそれを取り消している。家族や友人など関係者は警察の対応に不満で適切な説明を求め、8月6日に静かな抗議の行進したが、それが不幸にも暴動と化してしまった。その火の粉が散るように8月7日は他のロンドンの区に騒ぎが広がった。

8月8日の夜9時ごろだったろうか、一向におさまる様子のない暴動の様子を24時間ニュース番組で見ていた。するとロンドンのテムズ河を渡って南部に暴動が広がっている。商店が破壊され、放火され、商品が略奪されている。これではクロイドンにも広がってしまうのではといやな予感がして不安になっていると、一緒にいた友人が窓を見て、「ロンドン・ロードの方で煙が上がっている」という。8月の夜は10時になっても明るい。その空を確かに煙が舞い上っていた。街の中心に近いほう。それも時間の記憶がはっきりしていないが、何時までたっても燃え続けているばかりか、ロンドン・ロードをずっと大学病院の方へ向ったブロード・グリーン地域の商店街の方からも煙が上っていた。そのうちテレビで、クロイドンの古くからある家具屋の店舗を丸ごと飲み込んで燃え盛る火事の様子を空中撮影した映像が繰り返し流された。しかしなぜかロンドン・ロードの火事の様子もなにもまったくテレビでは報道されなかった。歩いて5分とかからないところで暴動が起きている。ここまで被害が及ぶかもしれないという不安を感じながら眠る気になれないまま深夜を迎えた。お茶を入れようとして蛇口をひねると水が出ない。あとで納得したが、消防作業で大量の水が必要なためだった。近隣の友人からの電話では町の中心の店も襲われているという。いつまでも上空をヘリコプターの飛ぶ音がし続けた。

うとうとして数時間は眠ったろうか。朝目が覚めると、浴室も台所も、どの部屋も煙のにおいが充満している。窓を開けても同じだった。クロイドンの暴動はその夜で収まったが、他の地域でその後も暴動は続き、終息するまでそれから2日かかった。住む家を失ったり店舗や商品など生活の糧を失った人たちも少なからずいた。夏休みで海外にいた政治家たちは初め即刻動く気配はなかったが、事態が深刻さを増す中で帰国を余儀なくされ、特別国会が召集された。暴動後まもなく、クロイドンのロンドン・ロードにもキャメロン首相、ロンドン市長、そしてチャールズ皇太子が視察に訪れた。

私はようやく1週間くらいしてから、おそるおそるロンドン・ロードを歩いてみた。ロンドン・ロードの質屋の5階建ての古い建物が焼けて黒くなったレンガの外枠だけが残っている。そばに警官が立っている。その1つ1つの窓から室内の部品が焼けてゆがんでぶら下がっているのが見えた。街の中心を背にさらにある程度行くと、道路はいまだ封鎖されそこでは幾人もの警官が配置されていた。その先の様子はよく見えない。それからどのくらいの日にちがたっただろうか、以前のようには警官の姿は見えないが道路の一部に高い金網のフェンスが10数メートルはりめぐらされていて車は通れなかった。ただ歩道の制限はなくなっていたので、フェンスの脇を進んでいくと、フェンスの向こうにまるで爆弾でも投下されたのかというような廃墟が広がっていた。写真をとっているのは私ばかりではなく何人もいた。隣の若い女性はシャッターを押しながら「ひどい、ひどい」とはき捨てるように言って私の同意を求めるようにこちらを一瞬見て、顔をゆがめて歩き去った。

9月21日のイブニング・スタンダード紙は「メトロポリタン・ポリスは暴動で被害を被むった企業から2億ポンドの損害賠償を請求される」という記事を載せている。政府は被害者への経済的支援を約束した。クロイドン区でも被害者への支援、そして暴動の原因を探り、今後このようなことが二度と起きないための方策を考えるための動きはすぐに始まっている。いくつかの集会があり、街の広告ボードには区の「クロイドンの回復」という広報が貼られ、それぞれの暴動による影響や関係機関の対応、経験から学ぶことなどについて住民から情報を募っている。特別委員会が設置され、委員会がなぜ暴動が起こったのかを始めその対応など詳しく検証するようだ。それがさらに国の委員会へ伝達される。政治家たちは暴動の最中「これは抗議行動などではない。単なる犯罪行為である」と繰り返し強調した。その定義に反論はないとしても、なぜこのように大規模な暴動が起こったのか、そしてなぜここまで悪化するまでくいとめられなかったのかという強い疑問は消えない。

ちなみに、1985年にも最初に暴動のきっかけとなったロンドン、トッテナムでは有名な暴動が起きていた。偶然にも、その年も10月1日に30度近い高温を記録している。今年は9月末から10月2日にかけて、1985年以来初めてその記録を破る高温が記録された。






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